「私は、側弯症です。」と言われると、
私=側弯症、とおっしゃっているように聞こえる。
けれど、ご自身のアイデンティティと、
既往症や疾患として名付けられた病名を一緒にしないでほしい、
と私は思う。
アレクサンダー・テクニークは、治療ではなく教育(学習)だ。
だから、生徒さんの痛みや疾患を直接的に癒したり、
治すことはできない。
けれど、レッスンの中で
ご自身のバランスが変化し、
からだを軽く感じたり、
動かしても痛くない、という経験をすると、
何やら画期的な治療法に出合ったかのように
思われる場合がある。
だが、アレクサンダー・テクニークは治療ではなく、
教育(学習)である、ということは重要だ。
では、アレクサンダー・テクニークが教育って
一体それが何の役に立つのだ?
この質問にひと言でズバッと答えられないのがもどかしいが、
F.M.アレクサンダーが表現した
”じぶん自身(セルフ)の使い方”だとすると、
じぶん自身(心身統一体としての)に対する
見方(パラダイム)を変えること、
が一つの側面だと言いたい。
じぶん自身に対する見方(パラダイム)が変わると、
「私は、側弯症です。」という言い方から、
「私は、側弯症と診断されました。」に変わるだろう。
それが、どう違うのか?
前者は、側弯症と私が一体化してしまっているが、
後者は、あくまで(医者という名の)他者の一診断であり、
私という存在のある側面だ、という認識の仕方だ。
前者は、それに対して素人で無力だというような感覚をもたらすが、
後者は、わたし自身と”側弯症”の関係性はまだ未知の部分があり、
変化の可能性が残っているし、選択の余地もある、と思えるはずだ。
患っている時間の長さや、痛みやしんどさの度合いによっては、
受け入れがたい考え方かもしれないし、
そんな”見方の変化”が違いを生むとは考え難いかもしれない。
だが、実際それは、とても大きな変容をもたらす、
と私は考えている。
最後に、ある医者の言葉を引用したい。
飛行機は、その設計図が今や複雑すぎて、
それぞれの機種専門の整備士が存在するらしいが、
どんなに複雑だったとしても
飛行機は人間が作ったものだから、
設計図を見れば整備することができる。だが、人体は人間が作ったものではない。
我々医者がすべてを知っているわけではない、
という認識を持ちつつ、治療しているのだ、と。
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