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F.M.アレクサンダーの発見 その1

F.M.アレクサンダー(1869年生)は、若くして前途有望な俳優であったにもかかわらず、

これからというときに声がかすれるという問題にぶつかります。

それを克服するために彼が何をしたのか、
アレクサンダー・テクニークの原理発見までのプロセスを知ることは
アレクサンダー・テクニークがどんなものかを理解する手助けになるでしょう。

はじまり

若き日のF.M.アレクサンダーが、友人たちに舞台上で、
あえぐように話し、息を吸い込む音が聞こえると言われたのは、
俳優として着々とキャリアを積み、成功への道筋が見えていた頃だった。

彼にとってとても魅力的で重要な契約がかかったリサイタルを前にして、
彼の喉の状態では、彼自身それに臨むことに恐れを感じるほどだった。

そこで、それまでの治療でも期待はずれだったにもかかわらず、
ふたたび医者のところに行く決心をした。

医者は、アレクサンダーにリサイタル前の2週間の間、できるだけ喉を休めるように指示をする。
そして、それは上手くいったかのように彼の喉の状態を回復させた。

しかし、肝心のリサイタル当日、最初は順調にスタートしたものの、プログラムの中盤を前に
声はかすれはじめ、終わるころには声を出すのが難しいほどになった。

喉を休めたら回復したかのような状態になったものが、リサイタルがすすむにつれて
喉がかすれる状態になっていったのを見て、アレクサンダーは医者に問いかけた。

「あのリサイタルの夜、声がかすれる原因となることを私が何かしたのではないか?」

医者は少し考えた後、正直に「そうだと思う。」と認めた。

「では、トラブルの原因となるような何をしたのでしょう?」と聞くアレクサンダーに
「わからない」と答えた。

F.M.アレクサンダーは、そこで
「もしそうなら、私は自分でその原因をつきとめるべきだ!」と探求を始めたのだった。

最初の重要な発見

最初に鏡を用意して、普段の彼の話し方と朗唱している時を見比べてみた。

するとすぐに、
 ー 頭を後ろに下に押し下げる
 ー 口から息を吸う
 ー 喉頭を押している
という3つのことに氣づく。

何度も鏡の前で歌ってみて、観察し、実験してみたうえで、
これが声の問題の原因ならば、それをやめればいいと考えるのだが、
迷宮に入ったような状態だった。

何から始めればわからなかったのだ。

辛抱強く鏡の前で実験を繰り返した数カ月後、
やっと、頭を後ろに下に押し下げるのをやめることで、
間接的に他の2つの課題(喉頭を押し、口から息をすう)を
やめることができることがわかった。

この最初の重要な発見は、いくら評価してもしすぎない・・・とアレクサンダーは言った。

なぜなら、それは
人のからだのすべての機能の働きをつかさどる
”プライマリー・コントロール”の発見につながったのだから。

使い方と機能のあいだには密接なつながりがある

誤った使い方を防止すると、
朗唱する間に声が以前ほどかすれなくなっていることに氣づく。

そうしてアレクサンダーが確信したことは、

この3つの害になる傾向を防止することによって、
声帯と呼吸系のメカニズムの機能に多大な効果をもたらすということ。

これはアレクサンダーの実験・調査の第二段階だった。

”使い方”と”機能”のあいだには密接なつながりがあることが

初めて認識できたのだ。

その後も頭を後ろに下に押し下げる傾向をやめるために、試行錯誤を続けた。

そうしているうちに、アレクサンダーは、頭を後ろに下に押し下げる傾向は、
胸をそらし背中を短くする傾向とも結びついていることに氣づく。

この新しい発見は、発声器官の機能は、胴体全体の使い方にも影響される、
ということを示していた。

頭を後ろに下に押し下げることは、
特定の部分の誤用だけの問題ではなかった

他のメカニズムとの誤用にも、切り離しがたく
結びついていたのだ。

ということは、喉や声帯の状態がある程度まで改善したものの、
頭と首(背骨)の関係を変えることだけで解決しようとすること自体が
無理というものであったとわかる。

しないこと(non-doing)とすること(doing)を同時に

ここからまた長い一連の実験を始めた。

背中を縮める傾向を防止しようとしたり、
長くしようとしてみたりを繰り返すと、

長くなっていくほうが、喉頭のメカニズムがよい状態で、
声がかすれる傾向もないことにつながることがわかった。

ところが、朗唱をしながら頭を前に上に持っていこうとすると、
胸を持ち上げ、背中の弓なりが増す、つまり背中を縮める傾向の
古い習慣に戻ってしまうのだった。

アレクサンダーは、実験をしながら発見したことを、
実際の自分の活動に当てはめることを続けていくのだが、
ここで初めて”しないこと”と”すること”を組み合わせてやってみようとする

つまり・・・

古い習慣である、頭を後ろに下に押し下げ、胸をそらしてしまうことを
”しないように”しながら、

頭を前に上に、背中は長く、そして広く”する”ことを試みたのだ。

やっていると”感じて”いたことを、実はやっていなかった

”しないこと”と”すること”を同時にすることは上手くいかなかった。

そこでアレクサンダーは、
自分は、それをすると意図し、やっていると”感じて”いるけれど、
本当はやっていないのではないか、ということを疑いはじめる。

もう一度、鏡の前で自分自身を観察してみた。
予想通り、自分では”やっている”と”感じて”いたことをやっていなかった
しかも正反対のことをやっていたことを見つけてしまう。

自分でやろうと意図したことができていなかった!

それをアレクサンダーは、
『やっていると信じていたことは、delusion(思い違い)だった。』
と評している。

”unfamiliar(慣れない)”感覚

やっていると”感じて”いたことを、実はやっていなかったという彼のような思い違いは、彼だけに起きた特異なことだったのか?

そうではなかった。
アレクサンダー自身もそれを疑ったのだが、著書によると彼自身の経験だけでなく、多くの人に共通していることだとテクニークを教えた経験からも言える、ということだ。

そして、非凡な考えにたどり着く。

古い習慣的なやり方を馴染みのあるものと感じるのであれば、
新しいやり方には”unfamiliar(慣れない)”感覚が伴うはずだ!と。

この考えは、彼にこれまでの実験をもう一度最初から見直す必要性を示していた。

じぶん自身全体

ここまでくればふんばるしかない、と考えたアレクサンダーは、

そのためにどうすればいいかという方法もなく、
彼は忍耐強く、自分自身を観察し続ける。
これまでと同様に何か月も辛抱強く、成功と失敗を繰り返した。

これといったことは見つからなかったが、
その代わりこの時期に演じている時の他の動き、
立つ、歩く、ジェスチャーのために腕や手を動かす、その他演出に必要なもろもろが、彼の頭と首、喉頭、呼吸などの間違った使い方になんらかのつながりがあることを見つけた。

”朗唱する”ことに伴う動きー立つ・歩く・腕や両手を動かすなどー
のために必要な部分すべて、つまりは人間有機体としてのすべて、
じぶん自身全体の使い方に注意を払う必要があるということだ。

そして今まで以上に注意深く、鏡の中の自分を観察してみると、

さらに彼は自分の脚・足・足指でもやっていることがあることを見つける。

それは、尋常ではない数の筋肉に緊張をもたらし、間接的に彼の声の問題と
つながっていた

その上、この習慣は、演劇指導の先生から「足で床をつかめ」と指示されたことに従ったために起こったことで、一生懸命それを練習したため、
その習慣は強化されていたこともわかった。

習慣の抗いがたい力

この培われ強化されてしまった習慣は、
ほとんど抵抗することが不可能な刺激としてアレクサンダーを苦しめた。

頭と首(背骨)の新しい関係性をもたらす新しい感覚は、
古く馴染みのある習慣と比較するとどうしても弱いものだったのだ。

ある特定の部位のつかい方が、どんな活動においても他の部位のつかい方と非常に密接な関係にあることを忘れてはならない。~中略~もし、何かの活動で「直接」つかわれる部位を比較的新しい、まだ慣れないやり方で使おうとすると、この刺激はこの活動に間接的につかわれるその他の部位を古い習慣的なやり方でつかう刺激にくらべて弱いのである。

「自分のつかい方」F.M.アレクサンダー著 鍬田かおる訳 より

だからこそ、古い習慣化した誤った使い方を、
新しい筋道のとおった使い方に変えていくことは困難なことなのだ。

その上、その習慣が何度も繰り返し強化されていた場合、
特にレッスンの初期段階においてのその影響は、
事実上抵抗し難いものになる、ということだ。

このことからアレクサンダーは、
じぶん自身の使い方の”方向づけ(Direction)”に関する
問題全体を熟慮してみると、

これまでそのことについてよく考えたこともなければ、
自分が正しいと感じる”感覚”に頼っていただけだと認めざるをえないとわかる。

方向づけ(Direction)

ここでアレクサンダーが”方向づけ(direction)”として指しているのは、
 
頭の中で『~しよう』と考えたことから始まる、
脳から身体機能に発したメッセージを含めたプロセスと、
 
そのメカニズムを使うために必要なエネルギー
伝えること、に関わる一連のプロセスを意味している

「いったい、今まで頼りにしてきた”方向づけ”とは何だろう?」

自分のつかい方をどのように”方向づけ”してきたか、などということを
これまで考えたことがなかった、とアレクサンダーは思い至る。
 
自分がまっすぐ立っているとか、
頭が前に上に行っている、という判断を
 
習慣的で自然なことのように感じる”感覚”に頼っていたにもかかわらず、
鏡で確認すると、実際にはそうなっていなかった。
 
そしてそれは、他の人も同じで、
その違いというのも程度の差だけだとわかったのだ。
 
アレクサンダーは、このことに衝撃を受け、
本当に行き詰ってしまったと感じた。
 
自分が頼りにしていた”方向づけ”の基準が、習慣的な”感覚”でしかなく、
それこそが頼りにならないものだったのだから、です。
 
 
ところが、アレクサンダーは、絶望しませんでした。
 
それどころか、全く新しい分野の研究の可能性が示されているのでは、
と思うようになっていたのです。
 
 
アレクサンダーは、理屈でこう考えました。
 
『私たちの感覚が、”方向づけの基準”として頼りにならないものになることが可能ならば、それはもう一度頼りになるものにすることも可能なはずだ』と。
 
 
そして、こうも考えた。
 
『もしこの感覚の不確かさが文明生活の産物であるなら、
時間が経てばたつほど、普遍的脅威になっていくだろう、
ならば、感覚が”指揮の基準”として
再び信頼できるようにするためのやり方を知っていることは、
かけがえのないものになっていくだろう』
 
 

F.M.アレクサンダーの発見 その2へ 続く